Amy-A

中央線のとある駅下車バス10分のところに住んでいます。

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豚と呼ばれた女

さて、アレがナニしております。わたしが認識できて、芸に感服した芸人さんは中川家で終わっているため、反社がどうの、闇営業がこうの、アレがナニしてだのって芸人さんのことは素で知りません。ところが昨今の脱税問題が、愛してやまない『いだてん』に飛び火しました。該当する芸人さん出演シーンをカットしたとか。そうなっちゃぁ黙っていられません。しかもその芸人さん、『いだてん』で、東洋の魔女を率いた大松博文監督を演じるっていうじゃありませんか。東洋の魔女って言ったらアレですよ、中学・高校とバレーボール部だった、うちの母のアイドルなんですよ。大松監督なんて言ったら神にも等しい存在だったんですよ。その昔、ママさんバレーと呼ばれる活動が盛んでした。中学・高校とバレーボール部だったうちの母も、子育てがひと段落したころに意気揚々とクラブ入りしました。そんなある日のこと、普段からテンションの高い母が妙に浮かれています。聞けば、かの大松監督が我が町にやってくるとのこと。オリンピックのあと要職に就き、いろいろあった大松監督は、当時日本中のママさんバレーチームを回ってトークショー&模擬練習をしておりました。母は秒でイベントに申し込み、大松監督から直々にコーチを受けられる10名ほどのメンバーに選ばれました。当日までのアレはもう、ご想像のとおり。そしてイベントも終わり、母は至福の表情で帰宅したのでございます。大松監督マンセー状態で。「大松監督のコーチってどんな感じ?」当時小学生だったわたしは母に尋ねました。「あのね、あのね、あたし、豚って言われちゃった!」は?そこで喜ぶか普通。激怒するところだろ? ママ、おじいちゃんがまだ生きてたころ、「こんな豚がどうのこうの」と言われるたびに腹を立ててたって言ってたじゃん。「あたしのこと何度も、豚、豚って呼んでね、『この豚、見所がある』って言ってくれたの!」でも豚はないよ、ママ。怒れよ。てな感じで、母はその後1週間は地に足がついてません状態でした。なにせ時代は昭和、スポーツといったら重いコンダラを引っ張り、ウサギ跳びで膝をぶっ壊し、バレーボールといったら(それはドッジボールではありませんか?)みたいに体にボールをぶち当てるような“しごき”やら“体罰”が美化されていたころのおはなしです。心も体もガチ体育会系だった母とは正反対で、小学校から短大まで文化部で通したわたしは、この“しごき”が大嫌いでした。悲しくなるほどスポーツが苦手だったというのも理由のひとつでしたが、スポーツができないやつは人にあらず的な両親の教えにも違和感がありました(父はめっちゃ足が速くて、サッカー部から陸上部に推薦されてインターハイ予選に出場しました)。ふたりとも何かあればわたしをひっぱたいておりました。それと体育会系精神との因果関係は依然として謎です。とはいえ、あの日の母のはしゃぎようは、今もいい思い出として記憶に刻まれています。だからこそ、かの大松監督が『いだてん』で取り上げられると聞き、ちょっと、いや結構楽しみにしてたんです。彼を演じる芸人さんの不祥事につき、編集が施される。母の思い出にもハサミが入るような、ちょっとナニがアレする気分でございます。

チョコレートブラウニー

社会人時代はずっと外資系にいたため、義理チョコを配るという悪習(あえて言う)に染まらずに済んだ。ありがたいことに、上司の皆様はいい感じに海外に染まっていて、ちょっといいところでランチをおごってくださったり、薔薇の花を1輪買ってきてくださったりと、社会に出てからのバレンタインデーは「プレゼントをもらう日」だった。中でも忘れられないのが、ヒデキ部長だ。最後に勤めた会社のヒデキ部長が、バレンタインデーには部下全員にチョコレートブラウニーを焼いて振る舞ってくれるという噂は聞いていた。噂どおり、退職するまでの3年間、ヒデキ部長の部下だったわたしもいただいた。20人ほどの部下に配るのだから、結構大変だったと思う。家族を動員したのかもしれない。でも、ヒデキ部長は毎年必ず自作のブラウニーを焼くのだ。しかも、おいしい。3時になると、みんなで給湯室に並んで自分の分のお茶を用意し、ヒデキ部長からいただいたブラウニーにかぶりつく。ああ、今年もいいバレンタインデーだねぇと幸せな気持ちになり、みんなでヒデキ部長にお礼を言う。息子さんが大好きで、中学受験の日も、合格発表の日も、卒業式も、入学式も、お休みを取って息子さんに付き添ったヒデキ部長。海外出張が多くて息子と話す時間が作れないから、息子の登校に合わせて早めに家を出て、電車の中で話すんだ――と、照れくさそうに話してくれたヒデキ部長。バレンタインデーというと、ついコンビニでチョコレートブラウニーを買ってしまうのには、こんな思い出があるからだ。

サンイチの初めの日に

 あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。 いったん書きはじめるとチャクラが開くので、もしかしたら連チャンで書き続けるかもしれません。さて、いつまで続くか。たぶん三日坊主でしょう。 拙宅では大晦日のチャンネル権はおもに夫氏にあるため、紅白歌合戦やジャニーズカウントダウンは、前の晩飲んだくれた夫氏が昼間寝ている間にひとりで楽しんでいます。いやー、今年はよかった。平成の総決算なのに、昭和末期まで決算に含めちゃったみたいな豪華さで、わたしたち世代はまんまとNHKの術中にはまったって感じです。 いやー、ミーシャ歌うめー。あのハイトーンいいなーなどと思っていたそのとき、あることを思い出しました。 ミーシャのヘアスタイル。あの特徴ある、ドレッドかコーン・ロウを巻き上げて、スカーフでまとめた、あれです。10年ほど前、近所の銀行でよく見かけた女性が、あんな感じに髪を結っていました。 で、首から下は、よくある女子事務服なんです。 最初はギョッとしました。でも、よくよく考えると、彼女は自分が好きな髪型を妥協することなく働いているわけだし、仕事中は仕事をする服装を守っている。彼女の勤務先も、彼女の個性を認め、「そんな髪型やめろ」なんて無粋なことは言わない。 すてきな女性が勤める、すてきな会社がこのあたりにあるんだな、納得したとたん、何だか顔が緩んできました。 がんばれ。いや大きなお世話ですけど、彼女がいつまでもあの髪型でいて、あの職場で働いて、楽しく過ごしてほしいなと思ったものです。 あれから近場に引っ越して、そんなにマメに銀行にも行かなくなり、彼女がどうなったのかは知りません。なんせ名前も、どこにお勤めかも知らないのですから。 平成三十一年最初の日の日記でございました。

今年も一年、ありがとうございました。

平成最後の大晦日まで放置しまくってたブログ、やっぱりごあいさつぐらいはしておかなければと戻ってまいりました。忙しかったかといえば確かに。でも、結構よく寝ていたような気がします。今年は入院したり、約20年ぶりに大阪に行ったりと、自分としては思い出に残る1年でした。村井理子さんからいきなりメッセンジャーが飛んできたあの日、もうすぐ去年のことになります。年初に悩まされた、かなり重いアトピー性皮膚炎に続いて胸膜炎と、ブログがなんだか闘病記のようでしたね。来年はもっと明るい話題で書いていきたいものです。お財布スリム化計画、デビットカードのおかげで順調に進んでいます。今のところは安心して使える店舗での利用に制限しているからか、トラブル知らず。小銭が減ったので財布の厚みは半分程度までスリムになりました。ショップのポイントカードも半分断捨離。気がつくと閉店しているショップがあったりと、時の流れを感じたりもして。訳書はただいま絶賛仕込み中です。来年中に2冊出せるといいのですが。10年続けた市民合唱団の活動も継続です。今年は初心に返ってベートーヴェン第九交響曲をきっちりとさらい、来年は、ずっと歌いたかったブラームス『ドイツレクイエム』に挑戦します。6月からはじまる練習を最優先課題とするため、下半期はほかのイベントに顔を出すことが減るかもしれません。それより時間を上手に使うことを第一に考えなければ。今年からおつきあいがはじまったクライアントは海外のエージェントのせいか、火曜日に受注して水曜の夜に納品、その後数時間やり取りが続くというパターンが多く、練習を結構休んでしまったのです。来年こそ、長期のお仕事にシフトできるよう、いろいろ整理整頓が必要です。……とまあ、思うところはいろいろありますが、来年もこのブログで皆様にいいご報告ができるよう、つらつらと書いていく所存であります。駄文におつきあいくださり、ありがとうございました。来年もよろしくお願いいたします(訳書も読んでね)。

沿ってみる

樹木希林さんが亡くなられました。 子どものころから当たり前のようにテレビに出ていた人が急逝されると、なんだか心にちいさい穴が開き、そこからひゅうと風が吹くような気分になります。子どものころは“おもしろい人”、内田裕也氏との結婚生活を興味深く感じ、モックンが婿入りしたと聞けば驚き、最近は枯れた演技と語りで他の追随を許さない大女優となって、スクリーンやテレビを通じて見知っていた方。 こないだ「むむむ」と唸ったのは、映画『日々是好日』の試写会に高円宮妃久子様がご臨席され、樹木さんがご病気で出席ができなかったときのメッセージです。この度高円宮久子妃殿下並びに同絢子女王殿下の御臨席を賜りまして ひたすら有難く頭(こうべ)を低(た)れるばかりです 本を買って戴いて生活しているけれども、こんな立派なメッセージを自筆でお届けすることができるだろうか。自分を振り返り、ただ恥じ入るばかりでした。 生涯(ふたり目)のパートナー、内田裕也氏についても、こんな風に話しておられました(出典が見つからないのでウロなのはご勘弁を)いや、まあ、大変な人なんですけどね、わたしずっと、この人に沿ってこなかったと思ったんですよ。何もしなくてもいいから、これからは沿っていこう、そう決めたんです。 たぶん、トークショーか何かで直接しゃべっておられたんじゃないかな。 そのとき、なるほどと自分を顧みたわけですよ。 うちの夫氏は結構変わり者で、まあ、いろいろ陰で表で言う人がいます。妻として、嫌な奴と思ったことも、本気で怒ったこともあります。 でも、こんなわたしを好いてくれて、20年以上夫婦をやってきて、今さらどうのこうのというのはやめて、あの人と“沿って”いこうと考えています。 つかず離れず、依存もせず、少し距離を置いて一緒に歩いて行く。 うまくできればいいんですけどね。まあ、ちょっと長い目で見守っててください。

ほんと、めちゃくちゃなんだけど

 雨まじりの9月15日。インテリジェントなビルのインテリジェントな関門をくぐり、おしゃれなカフェ風スペースにたどり着いた。 待っている間、貨物用エレベーターがあるのに気づいた。あっちもオートロック式だけど、ヤマトさんが出入りした隙を狙って入ったら上に行けるかも。一瞬考えたけど不法侵入はよくないと思い直す(あとで聞いたら、そっちから入ると大変なことになったのだとわかった。セキュリティー上詳細は書かない)。 この日の主役、森信太郎氏はTwitterのアイコンそっくりの青年だった。キャスケットをかぶり、(ぼくがこんなところにいていいのでしょうか)みたいな顔をして、所在なげに座っている。声をかけたいけど、いきなり初対面のおばちゃんが威嚇してイベントが台無しになってはいかん。編集Tさんからお声がけがあってからにしようと踏みとどまった。 そして、心肺コンビ、10か月ぶりの再会。 村井理子さんは顔がひとまわり小さくなり、目がくるりと大きくなっていた。前回会ったときもそうだったが、とにかく気が回って、くるくると移動しては、いろいろな人と挨拶している。肺を病んだこっちは相変わらず動きが鈍いし、消耗して痩せた分はしっかりリバウンドしつつあった。元気づけられると同時に、自分もしゃっきりしないといけないなと感じた。 そして! ラブレターまで書いたマイブームのライターさん、栗下直也さんにお会いできたのだ。「安達さん安達さん! この人、『偉人は呑んだ』の!」「偉人は呑んだ!?」「偉人は呑んだ!」 理子さんと何度「偉人は呑んだ!」と繰り返しただろう。お名前でお呼びしろよ自分。 そして同じくマイブームというか、勝手に尊敬している校閲者の牟田都子さんともご挨拶できた。テレビで拝見したとおり、凜として、物静かで、ときおり鋭いコメントをされる方だった。かっこええ。

みんな、夏のせいだ

やっべえ、2か月もブログ書いていない。 肺のほうはおかげさまですっかりよくなったのですが、とにかく疲れやすい。今年の猛暑のせいです。暑すぎます。責任者呼びたいぐらいです。日中外出すると頭がぼうっとして、へろへろとベッドに横になる。むくっと起き上がって何かを始めて、脱水っぽい症状でスポーツドリンクを飲んで横になる。7月はずっとそんな感じでした。 8月は夫実家がある長岡市で花火見物。思えば花火の季節に帰省するのも10年ぶりぐらい。当地には結構足を運んでいるけど、結局法事がらみで3月に集中してました。この7~8年、8月というと書籍の追い込みと重なっていて、夫氏をひとりで実家に送り出し、がりごりと訳稿に向かっていたわけですが、今年は久しぶりに書籍の仕事がない夏。実務翻訳のクライアントが海外ばかりになった今、夏はほんとにヒマでした。出版社から検討を依頼されている本を読むのなら長岡でもできるよね、ということで、義母の都合などなにひとつ考慮せず、強引に花火見物を決めました。 久しぶりの長岡花火は以前よりも洗練されたような印象で、プログラムがサクサクと進んでいきます。プロポーズのメッセージとともに上がる花火とか、「おじいちゃん、おばあちゃん、金婚式おめでとう、孫一同」と、ほのぼのしたかわいい花火は最初のほうで上がったのかな? わたしたちが河川敷に着いたときには企業スポンサーの巨大な花火が上がっていました。セブンイレブン提供の花火が徹底してセブンイレブンカラーを全面に打ち出していたのには笑いました。徹底してるわ。 でも、フェニックス花火と二発の三尺玉には圧倒されました。打ち上げの段取りはある程度コンピューターで制御しているのでしょうが、フェニックス花火は歌とのシンクロが見事。 今年はNHKの地上波で生放送されたそうですが、ご覧になったことのない方のために。

肺を病みまして(3)ピンク・イズ・ニュー・ブラック

 病院の朝は早い。午前2時に入院しても午前6時に灯りが点き、ナースさんたちの足音が急に大きくなる。ワゴンを押して入ってくるなりナースさんが採血し、血圧、検温、酸素飽和度を図り、テキパキ仕事を片付けていく。わたしは身体を差し出すのがやっとだ。 酸素飽和度は90とまだまだだが、熱は38度台まで下がっていた。抗生物質えらい。1度下がるとかなり意識がはっきりしてくる。 午前8時。朝食がやってきた。まだ食べられないよ……。トレイに載った札には〈米飯:180g〉とあるけど、結構なボリュームだ。いやそれより箸がない。着の身着のまま入院したわたしには箸がない。「あのー、お食事には箸が載ってこないんですか?」 おそるおそるカーテンを開け、同部屋のみなさんに声をかける。「あ、わたしの割り箸あげるよ。たくさん買って余ってるんだ」前のベッドから声がして、ショートカットの女性が顔をのぞかせた。 ポップだ!『オレンジ・イズ・ニュー・ブラック』書籍版に登場する厨房のボス、Netflixでは「レッド」と呼ばれているポップそっくりの女性が、わたしに向かって割り箸を差し出している。「ありがとうございます!」「あとで一緒にセブン行こう。足りないものは結構セブンで手に入るよ」